2015年10月21日水曜日

願いごと手帖は、なぜ「棚ぼた形式」で書いていくのか~イロハ解釈~




寝ても寝ても、いっつも全然寝足りない秋!
今も、ブラジル時間でリズムを取っている物書き屋です。

こんばんは。

記事内容とは無関係な絵をドンと載せてはおりますが、それはススっと流していただいて、サクッと先に進みましょう。

引き寄せの法則やら願いごと手帖やらを駆使し、人生を創っている真っ最中の私ですが、ずっと不思議に思っていたんですよ。

どうして、願いごとを棚ぼた形式で書いていくんだろう……と。

そんなことを考えていた時に、ふとある出来事を思い出しました。

小学生時代の願いごと


私が小学生の時。
「マラソン大会で上位に入りたいなあ」と、なんて思っていた時期がありました。
上位入賞者に憧れていたんですね。

運動は、得意な方ではありませんでしたから。

そして、そんな憧れを思った事すらスッカリ忘れていた中学二年生の時の冬。

なれたんですよ。
女子で3位に。

部活は文化部。
運動はしていません。
努力もしていません。

それでも、上位に入れたんです。

なぜなら、自分の周りに溢れる思春期が「マラソンかったり~……」と、サボりだしたから。
自分のタイムは伸びなくても、周りのタイムがガッツリ落ちたんですねえ。

物書き屋は、言わずと知れたマゾ気質。
長距離を走り切って、ゴールした時のあの爽快感を味わいたくて、マラソンの授業だけは好きだったものですから、上位になれちゃったんです。

その経験をふっと思い出した時に、なんとなく腑に落ちたんです。

「願いごとの棚ぼた形式」。

ただただ、人を信じて待つという姿勢


手帖の中に、何十個も書き連ねてある願いごと。
それのどれもが、「自分の周りが叶えてくれる願いごと」ばかりでした。

「いや、自分のは違う」

と、いう方もいらっしゃるとは思いますが、少なくとも、私の手帖を埋めている願いごとの全ては「他人が叶えてくれるもの」です。

「ミリオネアになる」という願い。

お札や硬貨に、足や羽はありませんからね。
お札が道をテクテク歩いたり、空をパタパタ飛んでいたり、玄関チャイムを鳴らしているお札が居たら、ヤフーのトップニュース確定でしょう。

誰かが運んでくれるから、諭吉軍団が私の手元にやって来る。
自分は「受け取る」だけ。

お金は、人と人との間にだけ通用するツールです。

「家族全員が笑顔で健康」という願いも然り。

家族が元気に笑っている顔を「見せてくれる」からこそ叶う願いです。
自分は「見る」だけ。

私が家族の体をこねくり回したり、スモールライトで小さくなって、家族の体の中に入って、物理的にトッチンカッチンと治して回れる訳ではありませんからねえ。

父母の笑顔が見たいからって、「ほら、笑いたまえ」と口の中に指を突っ込んで、彼らの口角を上げようもんなら、引っ叩かれるか精神病院に連行されるかのどちらかでしょう。

自分だけの力で叶う願いなんて、私の手帖の中には一つもありませんでした。
誰かの力で叶っていく願いばかりです。

人は一人で生きている訳ではありませんから、当然といえば当然なのでしょうが……。
この根底が、今まで全く分かっていなかったという私の目はウロコです。

ボロッボロ落ちている真っ最中。

だから「棚ぼた形式」なんだな……と、自分勝手に結論づけてみました。

他人から剥奪するのではなく、強制をするでもなく、人を信じ切ることさえ出来れば、「世界中から戦争という文字を消す」という願いも叶うのかもしれない。

と、

「物書き屋に、仕事がどんどん舞い込んでくる」という願いも叶っていないうちから、壮大な願いにまで思いを馳せてしまった物書き屋でした。

イロハ


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