その時、「私は存在している」と言えるんだろうか?と、考えてしまう物書き屋です。
こんばんわ。
デカルトが提唱した「われ思う故に我あり」という有名な命題。
これには色々な解釈の仕方がありますが、まずはwikiから。
一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。
いま自分が見ているその現実は、本当にそこに存在していると断言できるのか?
自分の五感を使い、感じているだけのものなのに、それが本当にそこに在ると言えるのか?
でも、そう思っている自分が居るんだから、自分は確かに存在している。
簡単に言うのならば、こんな感じでしょうか。
「私」がいる場所 ‐人間成り切りセット‐
これは、私もずっと考えていました。
一度、ピポシリーズでも書いたことがありますが、
私が見ている「赤」という色は、誰から見ても「同じ赤」なのか。
私が見ているこの「現実」は、本当に目の前に存在しているモノなんだろうか。
私が鏡を通してみている「私」という存在は、本当にココに存在しているのか。
目が前を向いて付いて、自分の顔を自分で見ることが出来ないのは、その必要がないから見えないんじゃないだろうか。
目が、自分の周囲を確認するだけの為に付いているのだとしたら……
それはただのカメラのレンズってことじゃないのか?!
などなど。
そんなことばかりを考えていた私ですが、先日やっと自分なりの結論に達しました。
それがコチラ↓
映画「アバター」を見てはいませんが、予告編などを見る限り、同じような考え方なのかもしれません。「マトリックス」とも被るかな?
上記の広告もどきを説明すると
①「私」はずっと霊界だか宇宙だかに居て、そこには「全ての存在である魂」しかいない。
②そこで「人間成りきりセット」なるモノを装着して、「全ての存在である魂」に「五感プラスαちょこっと」という制限を掛けてみる。
③その制限を掛けて見ている世界が、私が見ている「現実」世界。
【結論】 ①へ戻る
私は、ずーっと霊界だか宇宙にいる。
②そこで「人間成りきりセット」なるモノを装着して、「全ての存在である魂」に「五感プラスαちょこっと」という制限を掛けてみる。
③その制限を掛けて見ている世界が、私が見ている「現実」世界。
【結論】 ①へ戻る
私は、ずーっと霊界だか宇宙にいる。
どうしてそんなことをしているのかは、死んでから(人間成りきりセットを外した時)に分かるのでしょうし、生きている今、それが分かったところで「へえ~そうなんだ」くらいの感想しか出てきやしません。
仮に、推測をたてるのならば、
「なんとなく、やってみたかったらやってみた」
が、一番しっくりくる気がします。
まあ、成りきりセットを外したところで、私は私ですからね。
動機なんて、大したもんじゃないような。
でも、こう考えると、大好きだった私の祖母も「人間成りきりセット」を外しただけで、本当はずっと私の隣にいるんだな~と、嬉しくなってしまいます。
ただ、怒ると怖い祖母だったので
「何やってんの!!」
と、仁王立ちで怒っているような気もしますが……。
もし、これが真実だとしたら。
私が「人間成りきりセットを」を外したあと、その隣で「人間中」の家族や友人に、思いっきりちょっかい出して、思う存分楽しもうじゃないか!と、密かに思っています。
イロハ
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